NYのアート界で成功をおさめ、海外の多数の国で作品を展示し高い評価を受けている松山智一さん。
どの様な人物なのか、ご紹介します。
松山智一はどんな人?
・生年月日:1976年4月30日
・年齢:43歳(2019年10月時点)
・出身地:岐阜県高山市
・職業:画家・現代美術家
松山智一がアーティストの道に進んだきっかけ
幼い頃、アメリカ西海岸でスケートボードに出会い、その影響でカルチャー的なものに興味を感じながら成長していったこととアーティストになったことは松山さんの中では繋がっているそうです。
日本に戻り、大学時代はスノーボードでプロとして活動していたそうですが、その時に大怪我をしてしまいます。
約10ヶ月間まともに歩けないほどの大怪我で、スノーボードはもう出来ないと考えました。
これから何をするか。
もともとアートも好きだし、表現することなら一生出来ると考え、気づいたらアートをやっていた、と松山さんはいいます。
最初、日本ではアーティストが職業になると思わず、一方デザイナーなら職業と思えた時期もありましたが、ニューヨークでカウズなど少し上の世代のアーティスト作品と出会った時、アートを売って生活を切り盛り出来るんだ、と気づきます。
「自分の生き方が職業になる。それがいいと思った。日本にはいなかった。ブルックリンでパイオニアになれれば」
「日本に戻ってもフィットすることが出来なかった。アメリカに戻っても肌の色でマイノリティ扱い。自分はなんだろう?と思った。」
「21世紀はどこに行っても異国の人がいる。幼少期の葛藤が今は当たり前。そういうものを作品で拾いたい」
「アメリカで影響を受けたもの、日本の生まれた場所にあった古いものを合わせたい」
アーティストを職業と思えなかった青年は、2つの国の影響を作品で拾い上げていくようになります。
こういった想いは、You Tubeで詳しくわかります。
松山智一のビジネスについて
松山さんの、作品制作やビジネスに関しての行動力は相当なものと察します。
「作品は、作っただけでは外に出ていかない。今は作って、外に出して、経理も自分でやっている」
「軌道に乗るまで、目隠しして歩いているような状態だった。ビジネス感覚を保ち、作品も外に出す。サイヤ人でないと無理なような大変さがニューヨークにはある」
「ニューヨークを選んだのはアートの首都だから。ニューヨークで売れれば世界で売れる。だからアーティストの密度が高い。マーケットもある。そうやってインフラが整備されている分、アーティストとしてやりやすい反面、玉石混交の状態。玉になろうとしてるアーティストばかりで面白い」
「日本にいれば、ニューヨークに行きさえすればとなるが、もうニューヨークにいる。手ぶらで日本に戻れない。緊張感がある。疲れて国に戻っていく人が大半。自分はスケボーやスノボーで切磋琢磨はしてきたつもり。ニューヨークは刺激をもたらしてくれるし、ビジネスの反応も早い」
ニューヨークというアートの本場で戦っている姿が伺えます。
松山智一の作風
松山さんの絵を日本人がみると「ポップだね」と言い、アメリカ人がみると「和だね」と言うそうです。
アメリカと日本、2つの国で育ち、自分が気づかないうちにその両方が作品に出ていると松山さんは考えます。
その、気づかないうちに出ている部分を意図的に露骨にやってみようと思い、なにかの影響を色濃く受けた部分は捨て、取捨選択しながら今の自分の作風が出来上がったと言います。
松山智一がアートにおいて大切にしていること、やっていきたいこと
「アートが目的なのか手段なのか。自分はアートが手段。アートを作って発表して、人がどう思うかが大事」
「歴史の中で新しいことをやるというバランス感覚。スケーターが見て「すっげーいい、この絵!」と言い、キュレーターが見て「すごいね、この作品」と言わせる説得力。両方言ってもらいたい。わがままかもしれないけど、大事にしている」
「クラフト性も大事にしている。ヘタウマが主流になったり、みんなアイフォンで作ったりするけれど、自分はペインティングが好きという日本人の血が流れている。完成までに14ヶ月かかる絵もあるが、日本人しかこういうことしないみたいな感覚が海外では面白がられる。マイノリティの日本人としては、そういうことをドカン!としてやりたいと思う」
「美術館に行かないと見れないアートではなく、パブリックアートは否が応でもたくさんの人の目に触れる。たくさん巻き込める。極力、パブリックアートをやっていきたい」
松山智一の作品
https://www.instagram.com/p/BicF-p7h9zt/?utm_source=ig_web_copy_link
まとめ
日本とアメリカで過ごし、2つの国の文化を吸収して生きてこられた松山さん。
アーティストになったのはスノーボードの道が閉ざされたからという厳しい状況がきっかけでしたが、もう一つの才能がニューヨークで見事に花開きました。
どちらでもあって、どちらでもない、松山さんだからこそのアートをこれから楽しみにしたいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。