2月21日放送の『爆報!THE フライデー』にて、風船おじさんのご家族が出演し、28年越しに新事実を語られるそうです。
風船おじさんとは、1992年にバラエティーなどのテレビ番組で世間を騒がせていた人物、鈴木嘉和さんのことです。
鈴木さんはピアノ調律師で、様々なジャンルの商売に取り組んだ経営者でしたが、風船で空を飛び、最後には風船でアメリカに渡ることを目指しました。
謎が多く、日本の都市伝説サイトにも登場する人物ですが、今現在は生きているのでしょうか?
今回は、風船おじさんのその後を調べました!
風船おじさんのプロフィール
風船おじさん、鈴木嘉和さんのプロフィールがこちらです。
風船おじさん プロフィール
名前:鈴木 嘉和(すずきよしかず) 戸籍名は奥様の姓をとって石塚 嘉和(いしづか よしかず)
生年月日:1940年?月?日
出生地:東京
学校:国立音楽大学附属高等学校卒業
肩書:ピアノ調律師、経営者、自称冒険者
風船おじさんはピアノ調律師の一家に生まれたそうです。なんだか優雅な響きに感じました。
風船おじさんの職業
風船おじさんは様々な職業にトライされているチャレンジャーです。
風船おじさんの職歴
・ヤマハの契約社員として東京都小金井市でピアノ調律業を営む(高校卒業後)
・音楽教材販売会社ミュージック・アンサンブルを起業(44歳の時)
・銀座で音楽サロンのあんさんぶるを開店(1986年)
・麻雀荘経営
・コーヒーサロン経営
・パブレストラン経営
ただし、どの仕事もうまくいかず、1990年にミュージック・アンサンブルが4億円から5億円の負債を抱えて倒産します。
20人以上の債権者がおり、借金苦に陥ってしまいます。
ビニール風船26個を付けたゴンドラ(飛行船)「ファンタジー号」による太平洋横断で借金を返済すると債権者に語っていたといいます。
とにかくお金が欲しい状況だったでしょうね。
風船おじさんが起こしたトラブル
ここまで調べて、風船おじさんは行動力は素晴らしいけれども、あやうい部分があるような人物に感じます。
当然?トラブルも発生していました。
横浜博覧会立てこもり事件
1989年、風船おじさんは横浜市で開催された横浜博覧会にテナント出店しました。
ですが会場内における立地が悪いことや、博覧会自体の集客が順調でないことから経営はうまくいきませんでした。
そこで客集めとして、漫画家手塚治虫さんがデザインした横浜博のマスコット「ブルアちゃん」の着ぐるみを自作し、中に自分が入って撮影会、サイン会を実施していました。
やはり行動力はすごいですね。それに自作するにもお金かかったでしょうし・・・
しかし10月の閉幕が迫っているにもかかわらず、横浜博覧会協会が集客の対策を取らないとして、風船おじさんは抗議を始めます。
同年7月30日、早朝の4時から高さ30メートルの鉄塔に、ブルアちゃんの着ぐるみを持って足場伝いによじ登り、7時間ほど籠城する騒ぎを起こしました。
午前10時頃に博覧会関係者が異変を発見し、119番通報しました。
横浜市消防局のレスキュー隊員がハシゴ車で頂上まで行き説得しますが、ブルアちゃんの着ぐるみに入った風船おじさんは、イヤイヤポーズをするなど拒否。
20分後の11時45分頃に、説得に応じてハシゴ車で地上に引き降ろされるまで1時間近く鉄塔上を歩き回ったのでした。
民家の屋根に不時着事故
1992年、風船おじさんは風船で空に飛び立ち、民家の屋根に不時着する事故を起こしました。
風船おじさんは警察官の制止を聞かずに、多摩川河川敷から千葉県の九十九里浜を目指して、午後12時45分にヘリウム風船で飛び立ちます。
椅子に5メートルと2.5メートルの風船を2個ずつ直接くくりつけて、それに座り飛行していました。
途中、おもりの15kgの砂袋2個がはずれて急上昇し、予定の高度400メートルが5600メートルの高度に到達したため、ライターの火であぶって5メートルの風船を切り離します。
この後、高度が下がり、午後1時40分頃に出発地点から24キロメートル離れた東京の民家の屋根に不時着しました。
風船おじさんは左手にケガをした程度で済みました。
駆けつけた警官に謝罪しつつも、成功すれば次はハワイをめざす予定だったと語り、改めて再挑戦することを誓っていたといいます。
不時着された民家は瓦が壊れ、テレビアンテナが曲がる被害を受けました。
それに対して、風船おじさんは弁償も謝罪の挨拶もしなかったといいます。
かなり迷惑ですよね・・・それにしても椅子で空を飛ぶってめちゃくちゃ不安定で、想像すると恐怖しかありません。
風船おじさん行方不明に
風船おじさんは1992年11月23日、風船で大空に旅立ちましたが、そのまま行方不明になってしまいました。
別名『ファンタジー号事件』と言われています。
「ファンタジー号」という自作のゴンドラにヘリウムをつめた風船を大量に括り付けて、アメリカを目指した風船おじさん。
周囲からは「やめておけ」と必死に引き留められていたそうですが、それを聞かずにアメリカを目指し、琵琶湖の湖畔から太平洋を渡りアメリカ合衆国ネバダ州のサンド・マウンテンを目指しました。
この日はもともと、200メートルあるいは300メートルの上昇実験という名目でした。
運輸省(現・国土交通省)は安全性に疑問があることから飛行許可の申請を受理しておらず、あくまで地上に係留したままの試験飛行という条件で受理していたそうです。
しかし実際には「僕がもし、太平洋横断を決行したら、マスコミが大騒ぎして家に押しかけてくると思う」と家族にホテルに宿泊するよう事前に手配していました。
風船おじさんは、密かにアメリカまでの飛行を強行しようと考えていたんですね!
3人の娘に、アメリカ土産は何がいいかと聞いて、希望の品を書いたメモをポケットに入れて旅立っています。
120メートルまで上昇して一旦は地上に降りたものの、16時20分頃、「行ってきます」と言ってファンタジー号を係留していたロープをはずしてしまいます。
「どこへ行くんだ」という周りの声を無視して「アメリカですよ」との言葉を返し、重りの焼酎のびんを地上に落とし周囲の制止を振り切って、アメリカネバダ州サンド・マウンテンをめざして出発しました。
飛び立った直後にテレビ局が風船おじさんに携帯電話で連絡すると「ヘリウムが少し漏れているが、大丈夫だ」との回答があったようです。
ホテルにいる家族へは夜10時から携帯電話で連絡があり、その後も1時間ごとに電話がかかってきました。
風船の様子がおかしいこと、思ったより高度が上がらないこと、海に出たこと、煙草を吸ったことなどを家族に語っていたようです。
翌朝6時に「素晴らしい朝焼けだ!きれいだよ」と妻に伝え、その次の「行けるところまで行くから心配しないでね!」が最後の電話となり、以後、携帯電話は不通となります。
風船おじさんの現在
風船おじさんは、生死もわからないまま行方不明になってしまいました。
生きていれば80歳くらい。
専門家は、風船でアメリカまで飛んでいくのは不可能とはっきり断言しています。
積乱雲に巻き込まれたのでは、とか、高度から落下し焼死したから残骸がなにも見つからなかったのではなど検証されています。
また、自殺を狙った借金返済、売名行為などとも言われています。
アメリカに気流に乗って40数時間で着くと予定し、行方不明になった当日は、食料はスナック菓子しか持っていっていなかったそうです。
あまりにも無謀な挑戦。
残された借金を返済し続けるご家族も苦労を背負われていると思いますし、生き別れは本当につらいものがあるのではないでしょうか。
ただ、番組放送を観ると長女は父親に対して、「私達の中で父はまだ生きていて、空から私達を見守ってくれている気がします」とおっしゃっていました。
謎めいたままですが、風船おじさんは、まだまだ日本人の記憶に残り続けることと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。