ラグビー日本代表の堀江翔太選手。フッカーというポジションでスクラムの要となる存在で、チームを支え続けています。

実は堀江翔太選手は、「ラグビーワールドカップ2019」の開幕前に父親をがんで亡くしていました。

息子のラグビー生活をずっと応援し続けたお父さん。

堀江翔太選手の今は亡きお父さんとの関係を調べました。

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堀江翔太選手の父親の職業

堀江翔太選手のお父さんの名前は、堀江慎一さん。

着物の営業マンをしていました。

日本中を仕事で飛び回りとても多忙だったこともあり、堀江翔太選手は幼少期にお父さんと過ごした記憶がほとんどないといいます。

おやじとの思い出は本当に少ない

出張の多い仕事をしていると、ほとんど家にいませんものね。

あまりに一緒に過ごせないため、堀江翔太選手と兄と母親3人で、出張先へ会いに行ったこともあるとか。

お父さんは家族を支えるために必死に働き、でも不在が多く距離は遠かったのでしょう。

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堀江翔太選手の留学

お父さんとの関わりがほとんどない生活が長かったようですが、堀江翔太選手がラグビー留学を考えるようになる頃、転機が。

大学卒業後、ラグビーの本場・ニュージーランドへ留学したい両親に伝えます。

お母さんは心配と不安で大反対しました。

普通に就職して、仕事しながらラグビーを続けるだろうと考えていたようです。

国内に残ればトップリーグへの道も開けていたという背景もあったでしょう。

そんな時、お父さんは堀江翔太選手の背中を押してくれたそうです。

お前が決めたんやったら行ってこい

ラグビーの本場での経験は、その後の堀江翔太選手のラグビー人生に大きな影響を与えました。

ニュージーランドで学んだスキルはのちに堀江翔太選手を日本代表へと押し上げます。

お父さんの後押しで、代表の主力FWに成長することが出来たのでした。

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堀江翔太選手の父親にガンの宣告

堀江翔太選手は初めて日本代表に選出された2009年、順風満帆な選手生活をおくっていました。

その一方で、父親がステージ4の大腸がんと診断され、余命数ヵ月を宣告されてしまいます。

大腸がんでは、がんの原発巣からかなり離れたリンパ節、血液の流れにのって肝臓や肺、骨などに遠隔転移した「転移巣」がある場合と、腹膜にがん細胞の種がまかれたように転移する腹膜播種がある場合にステージ4と判定されます。

症状は、血便や腹痛、便秘や下痢など。

生存率は、2年後まで生存できるのは2人に1人、5年後まで生存できるのは5人に1人といわれています。

大腸ガンと診断された時はすでに、ステージ4で、そこから10年もの闘病生活をお父さんは家族に支えられながら過ごされます。

生存率からしても、10年間生き抜いたお父さんの精神力や家族の支えはものすごいことだと思います。

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闘病しながら堀江翔太選手を応援し続けた父親

闘病生活中、お父さんは堀江翔太選手の活躍を楽しみにしていたといいます。

堀江翔太選手がお見舞いに来て、同室の患者に

堀江選手ですか?

と気付かれると、嬉しそうに目を細めました。

体調のせいで、なかなか試合を直接見ることは出来ませんでしたが、お父さんは熱心に応援してくれました。

お父さんは「W杯までは頑張りたい」と話していたといいます。

しかし2019年3月、堀江翔太選手が沖縄合宿を打ち上げて大阪へ直行すると、お父さんの意識はほとんどありませんでした。

お父さんはその日のうちに息を引き取ってしまいますが、堀江選手の到着を待っていたのでしょう。

タイミング良く、よく頑張ってくれたから死に目に会えた

堀江翔太選手はお父さんの最期に立ち会うことが出来ました。

お父さんは堀江翔太選手の子供時代の写真を、ずっと財布に入れていたそうです。

息子から送られた試合で着用したユニフォームも、大切にしていたといいます。

お父さんはいつも息子のケガを心配していたといいます。

ラグビーは常にケガとの闘いなので、気になっていたことでしょう。

そして、誰よりも堀江翔太選手を応援していました。

「なかなか試合を見られなかったが一番応援してくれた」

お父さんの気持ちは、息子さんに充分に伝わっていますね。

ラグビーワールドカップに間に合わなかったのはとても残念ですが、余命数ヶ月と言われながら、10年もの長い闘病生活を生き抜いたお父さん。

お疲れさまでしたといいたいですよね。

そして改めて、堀江翔太選手や日本代表、関係者の方々に感動をくれたことにお礼を言いたいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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